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"いい投資"探検日誌 from 新所沢の過去ログ#1(2003年7月〜2012年3月までの記事)

難攻不落の水城/忍城

行田市にある忍(おし)城に行ってきました。

忍城はメジャーな城ではない城かもしれませんが、上杉謙信の攻撃を二度に渡って退けたり、豊臣秀吉の北条攻め小田原包囲網と同時期に行われた石田三成水攻めに耐えたりと名城と呼ぶに相応しい堅固なお城です。

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!5 かなり立派な忍城 三階櫓

忍城水攻めにおける石田三成方は23,000の軍勢。

対する忍城は城主が小田原城に詰めていたために老人や婦女子を中心とした3,700の手勢。

約10倍の兵力を持つ三成君は力攻めすれば簡単に落とせたような気もするのですが、何故か主君豊臣秀吉の毛利水攻めを真似したのか水攻めをすることにします。

近くの農民を雇って後に三成堤と呼ばれる堤防を作る三成君。

しかし、その農民の中には忍城方の兵が忍び込み手抜き工事を行います。

そんな事は知らずに三成君は丸墓山古墳に陣取り雨を待ちました。

運の悪い事に空梅雨でちっとも雨が降らず、せっかくの水攻めもなかなか水が溜まってくれません。

焦った三成君は秀吉に水攻めが長引いているけど、大将クビになんないよね?という書状まで出しています。(博物館に秀吉からの返事が展示されてました)

そして遂に雨が降ったかと思いきやこれが集中豪雨。

手抜き工事してあった堤防はあえなく決壊して三成の軍勢に数百人の死者が出る始末。

結局小田原攻めが終わっても忍城は落ちる事がなく、最終的に城内の兵と町民の命を助ける代わりに開城という条件を秀吉にのませ、開城となります。

三成の戦下手と言われる所以となった戦なのですが、どうやら水攻めに向かない忍城を水攻めで落とすように指示したのは秀吉君だったという説もあるようです。

その忍城、関東七名城に数えられる名城らしく堂々としたものです。

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!5 鯱は愛知県産らしいです。